フランク安田という人をご存知でしょうか?
今から約100年前。
アラスカの小さな村の人々を救った
ひとりの日本人男性の名前です。
彼の名は今でもアラスカの恩人と称えられ、
「YASUDA MT」(ヤスダマウンテン)という山も存在するほどです。
「アラスカの原住民を救い、
生活向上に大いに貢献し、
誰にも優しく接し、
とくに困っている人には
特別優しく接してくれた。
アラスカの人たちは
あなたをとても尊敬し、
敬愛しています」
これは、平成元年になって
アラスカ州評議会がフランク安田に贈った
表彰状の言葉です。
明治元年、石巻生まれ。
22歳で米国沿岸警備船・ベアー号の
キャビンボーイ(雑用係)として、
フランク安田は
石巻から外国の海へと旅立ちました。
あるときベアー号は、
予想外の寒波に襲われ、
アラスカの海上で
氷に閉じ込められてしまいます。
氷が溶けるのは数カ月後。
それまで食料がもたないと判明した船上では、
白人乗組員たちの不安と動揺が頂点に達しました。
まじめな仕事ぶりで
船長からは絶大な信頼を得ていましたが、
唯一の有色人種だったフランクは、
身の危険を感じ始めます。
そして、激しい吹雪の中、
ひとり大氷原を横断し、
人がいる場所まで救助を求めに行くという
命がけの任務に志願しました。
この任務は奇跡的に成功。
しかしフランクはベアー号に戻らず、
アラスカ最北の小さなエスキモーの村
『ポイントバロー』に残る決断をしました。
フランク安田は
現地の人と共に生肉を食べ、
言葉や狩猟技術も身に着け、
エスキモー社会になじんでいきました。
しかし、ここでも
順調なことばかりではありません。
村では生活の糧である
鯨漁が不漁続き。
祈祷師が占ったところ、
その原因は「よそ者」である
フランクのせいだと言われたのです。
フランクは村を追放されてしまいました。
しかしその後も不漁が続き、
彼のせいではなかったと理解した村人は
フランクを呼び戻します。
誰に対してもやさしく鷹揚で、
狩猟の腕も飛びぬけていたフランクは、
人格的にも実力的にも、
村にとって欠かせない人物となっていました。
ちなみに、
この頃結婚した妻・ネビロは、
フランクが最初に村を追放された際、
彼の後を追い、
一緒に村を出て行った現地の女性です。
フランク25歳、ネビロ16歳。
それから生涯、
ふたりは一緒でした。
さらに不漁で悩む村に
今度は
「はしか」が大流行。
人口500人のうち、
120人の村人が命を落としました。
フランクとネビロの幼い長女、
キョーコもこの時に亡くなっています。
村は、
英語が話せて指導力もある
フランク安田を頼りました。
今度は祈祷師が、
彼をリーダーとして名指ししたのです。
この時、35歳。
生き残る道は、
新天地への移住しかないと考えましたが、
その場所や資金繰りにも
まったくアテがありません。
それでも彼は必死になって
村の将来を考え、
苦悩する日々を過ごしました。
そんな時に出会ったのが、
アメリカ人の鉱山師・カーターでした。
当時、アラスカは
「第三次ゴールドラッシュ」でにぎわい、
金鉱を求めて多くの人が
やってきていたのです。
フランク夫妻も、
このカーターと組み、
金鉱探しの旅に出ました。
そして2年後に見事、金鉱を発見。
そこから90㎞ほど離れた川の岸辺を
「ビーバー村」と名付け、
移住地の候補としたのです。
大きな問題もありました。
移住地候補の近くには
インディアンの居住区があり、
村をつくる許可を得る必要があったのです。
しかし、
インディアンは生肉を食べるエスキモーを嫌い、
両者は昔から犬猿の仲でした。
フランクは以前、金鉱で出会った
「ジョージ大島」という日本人が
インディアンと親しいことを思い出し、
彼を探し出しました。
ジョージ大島のアドバイス通り、
大量の貢ぎ物を用意。
エスキモーの大酋長に扮して交渉にのぞみ、
見事、インディアンから
エスキモーの村を作る許可を得たのです。
ここまで手筈を整えてから、
『ポイントバロー』で
移住希望者を募ったところ、
約200人が手をあげました。
氷と雪に覆われた標高2~3000mもの山脈を超え、
直線で約800㎞の大移動。
さまざまなトラブルに見舞われながらも
人々を忍耐強く鼓舞し、
フランクは約3年がかりで
大移動を成し遂げたのです。
この偉業を称賛し、
世界ではフランク安田のことを
「ジャパニーズ・モーゼ」と呼んでいます。
「モーゼ」とは旧約聖書の最重要人物。
神の声に従って
イスラエル民族を新天地に率いた、
世界でもっとも尊敬される
英雄のひとりです。
金鉱を発見し、
フランク夫妻が手にした大金は、
すべて村の移住やその後の再建のために
使われました。
フランクは村人が獲る動物の毛皮を買い上げ、
外国に販売するなどして村の生計を助けました。
困っている人にはエスキモーに限らず、
アメリカ人にもお金を貸し、
返ってこなくてもあえて
取り立てはしなかったと言います。
第二次世界大戦時には、
アメリカの敵国人として
「日本人収容所」に収監されたフランク安田。
アラスカのフェアバンクスでは、
釈放せよとの嘆願書が出されましたが、
彼は日本人として、
収監される道を選んだといいます。
4年後に開放されましたが、
リーダー不在の村は、
一気に衰退していました。
78歳という高齢にもかかわらず、
フランク安田はまた村の再建に邁進。
結局一度も日本に帰ることなく、
90歳でその生涯を閉じました。
没後50周年となる2008年には、
ビーバー村の住人と
フランクの故郷・石巻の人々が、
アラスカの習慣で先人を弔う法要のようなもの
「メモリアルポトラッチ」を実現。
2008年4月と9月に
ビーバー村の修学旅行隊が石巻を訪問し、
2010年には石巻の人々が、
ビーバー村を訪れました。
フランク安田の生涯は、
新田次郎の小説『アラスカ物語』にも
描かれています。
この本を読んで感動し、
かなりの秘境にも関わらず、
ビーバー村を訪れる
日本人旅行者が後を絶ちません。
そのうちのひとり、中島愛さんという女性は、
現地の男性と結婚。
100年前にフランク安田が作ったビーバー村で、
昔ながらの狩猟生活を送りながら、
旅行者のための宿泊施設などを営んでいるそうです。
フランク安田が
遠くアラスカの地に遺した心。
それはたしかに時空を超え、
後世を生きる私たちにも伝わってきます。
特に東日本大震災を体験した石巻では、
困難に打ち勝つ彼の勇気が、
今こそ大きく人々を元気づけてくれるでしょう。
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