ミスコン。
それは、ウィキペディアによるとこうなります。
「ミスの敬称が示す通り独身女性の美を競うイベント。
一般的には容姿を基準に審査員が優劣を決めるため、
コンテストの上位入賞者は美人の肩書きを得ることになる…」
方々からのバッシングもなんのその、
世界各国、日本全国で今なお連綿と開催され続けるミスコンテスト。
ここ石巻でも、女たちの美しくも熱い闘いが、
100年の歴史を誇る川開き祭りをおおいに盛り上げてまいりました。
【自選が多かった初期の応募者】
1916年に石巻の川開きが始まって以降、
現存する資料に初めて「ミスコンテスト」の文字が見られるのは、
1955年(昭和30年)のことです。
ミスユニバースの日本版「ミスジャパンコンテスト」が始まったのが1950年ですから、
遅くともその5年後には、
流行の最先端と思われたこの催し物を石巻は導入したということになります。
ちなみにこの年の応募者数は「59名」。
統合前で今よりもずっと小さな街だった石巻にしては、かなり多い印象です。
その後の毎年の応募者数は記録が残っていないため定かではありませんが、
主催団体の担当者によると、
「当時はまだ、自選する人が多かったのではないでしょうか」と分析。
自選とはまさに、「我こそは!」と自ら手を挙げることですが、
たしかに近年は、ミスコンに自分で自分を推薦するほど
気概ある女性は少ないのかもしれません。
【豪華副賞も、時代の流れに応募者は激減】
特にミスコンが隆盛を極めた昭和の時代。
スポンサー協力も多く、選ばれた女性には現金や豪華景品などが多数用意されました。
なんせ、石巻の街自体がイッケイケの時代。
最新鋭の家電など、市民憧れのアイテムがぞくぞく、
副賞としてあがったと言われています。
しかしながら1970年には、突如「ミスコン中止」の文字が。
そもそも、20歳前後の独身女性という条件には人口的に限りがある上、
時代的にも、ミスコン自体への風当たりが強くなってきたのです。
「小さな街で毎年ミスコンを開催してきて、
いよいよ出場する人がいなくなったんでしょう。
自選が減り、他薦に頼るようになり、
時には主催側からお願いしてなんとか出場者を確保し、持続。
ついに1970年、いったん力尽きたという形ではないでしょうか」
その後は規模を縮小し、やったりやらなかったりが続いた模様。
まさにミス川開きコンテストの暗黒時代なのであります。
【水着から浴衣へ。形を変えて】
しかし、1983年には再び「ミスコン復活」の文字が。
なんだかんだいっても、やっぱミスコンだよね!
そんな熱い思いの台頭が、これを実現したと担当者は語ります。
「誰かが言い出し、立ち上がらなければ、何も始まりませんからね」
そうです。
まさに祭りとはそういうもの。
ふるさとの活気、子どもたちの笑顔を守るため、
地域のために働こうとする人々の思いが、
石巻の川開きを100年、支え続けてきたと言えるのです。
とはいえ、女性の社会進出が叫ばれて久しい昨今、
先の写真で見たような水着審査にはやはり違和感が否めません。
そこで最近は、浴衣美人に路線変更。
川開きが夏のお祭りで、本当によかったと思う瞬間であります。
2010年の開催を最後に、東日本大震災以後はまだ復活のメドが立っていない
ミス川開きコンテスト。
三度の復活を夢見て、最後に地元民のミス川開きエピソードをご紹介しておきましょう。
祭りの主催者団体で『ミス川開き』の係をしていた私の友達は、毎年この時期になるとあちこち飲みに出歩いては、若い女の子に「ミスさ、出でけね?」と声をかけていました。 あと、私は毎年ばっぱ(おばあちゃん)に「今年のミスより、あんだの方がめんこい」と言われて育ちました(笑)。
うちの従姉妹が昔ミスコンに出てました。今では石巻でよく知られている食品会社社長、Sさんの憧れのマドンナだったそうです。
ミスに選ばれた人は、昔は白い水着を着てオープンカーでパレードに参加していました。とってもまぶしかったです!
川開きシリーズ、こちらも参考に!
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